ただ座ることの難しさ

坐禅は、「ただ座る」ことが大切だと申します。
しかし、この“ただ座る”という、あまりに単純なことが、実はなかなかできません。
そこにこそ、坐禅の難しさがあり、また興味深さがあります。

いざ座ってみると、次から次へと考えが湧き起こってきます。
昨日のこと、明日の予定、誰かの言葉、自分への不満。
静かにしているはずなのに、心の中は実に賑やかです。

さらに姿勢が崩れれば、足や腰が痛み出し、
「もうやめたい」「少し動こうか」と思いが生まれる。
こうした自分の内側で起きる感覚や思考が、
「ただ座る」という行為から私たちを遠ざけていきます。

けれども、それらはすべて、
自分の中で起きていることです。

言い換えれば、
自分で自分の心を騒がせ、
自分で自分の静けさを妨げているのです。
私たちは時に、自分の思考さえも他人や環境のせいにしてしまうことがあります。

苦しいことや悲しいことがあれば、その原因を自分以外に向けたほうが、一時は楽かもしれません。
けれども、それは糸のもつれを外へ押しやっているだけで、肝心の結び目はそのまま残ります。

絡まりすぎた糸を解くには、時間と丁寧さが必要です。同じように、絡まりすぎた自分の心を解くにも、逃げずに見つめる静かな時間が要ります。

坐禅とは、その“もつれ”に気づく時間なのだと思います。

そんな坐禅にいざ挑戦!!

ということで本日、地元の高校野球部の皆さんが坐禅実践に参加してくださいました。
県外から野球に打ち込みたい一心で福井に来て、
日々厳しい練習に励んでいるとのこと。
高校生という血気盛んで多感な時期、
仲間との競争や将来への不安、さまざまな思いを胸に抱えていることでしょう。

今日は、慣れないお寺の静かな空気の中、
いつもとはまったく違う時間を過ごしていただきました。

最初はどこか落ち着かない様子も見えましたが、いざ始まると、それぞれが精一杯に坐ろうとする姿が印象的でした。
足の痛みや雑念と向き合いながらも、逃げずにその場に留まろうとする姿勢。

勝敗の世界に身を置く彼らにとって、「ただ坐る」時間は決して容易ではなかったはずです。

それでも今日という一日に、自分なりに一生懸命向き合おうとするその姿は、
歳を重ねるうちに知らず知らずのうちに慢心が芽生えている私自身への大きな刺激となりました。

若さとは、勢いだけではなく、
真っ直ぐに挑もうとする心なのだと感じさせられます。

坐禅は特別な修行ではなく、自分の心を人のせいにしないための稽古。

若き野球部員の真っ直ぐな背中を見ながら、私もまた、あらためて「ただ坐る」ことの意味を教えられた一日となりました。

大安禅寺 髙橋玄峰 合掌


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