大安禅寺を見守る鎮守堂



鎮守とは、土地・建物などを守護する神様のことです。
「鎮」は鎮める・落ち着かせる、「守」は守る、という意味を持ち、その場に鎮まり、災いを防ぎ、安寧をもたらす存在として信仰されてきました。
大安禅寺の境内、裏山の一角にひっそりと佇む鎮守堂があります。
住職と私以外、ほとんど人の入ることのない場所です。
境内を見下ろし、遠くには白山を望むことができるその場所は、どこか時間の流れが違うように感じられます。
本日は朝一番より、今年一年の感謝を込めて掃除をし、鏡餅をお供えして参詣いたしました。
ご神体は天照大御神。あわせて薬師如来、観音菩薩など、深いご縁のある権現・仏さまが祀られています。
このお寺の護持役として日々を過ごさせていただく中で、不思議に感じることが度々あります。
それは決して神がかり的なものではなく、「今日一日を大切に、感謝の念をもって生きること」の大切さを、ふとした折に示していただいているような出来事です。
振り返れば、今年は私にとって本当に大変な一年でした。
それでも一つひとつ乗り越えることができたのは、報恩の想いを礎に、多くの方々に支えられ、仏縁の中で歩ませていただいたからにほかなりません。
掃除をし、香を立て、般若心経を誦む。
それだけで、自然と心が調っていく――
そのことを、ただただありがたく感じるひと時でした。




本堂も完成したので鏡餅を供え明日はいよいよ今年最終日。
除夜の鐘を務めあげ、正月三が日のご祈祷に備えたいと思います。
皆様明日は夜11時45分頃から鐘を撞きはじめます。
是非新年のご祈祷と共に心を調えに来てください。
【除夜の鐘について】
私の見解を述べておきます。
除夜の鐘とは、「夜を除く」と書くように、一年の終わりに鐘を撞き、心の闇――
一年の煩悩を払い除いて新年を迎えるための仏教行事です。
年の変わり目に心を調え、自分自身に区切りをつける大切な時間でもあります。
煩悩は、人として生まれながらにもとから具わったもので、私たちは皆、煩悩を抱えて生きています。魚が水の中にいながら水を意識しないように、日常の中ではその存在に気づきにくいものです。だからこそ、「これは煩悩かもしれない」と気づけた瞬間こそが、自分自身を内観できている尊い気づきといえます。
仏教には「煩悩即菩提」という言葉があります。
煩悩を否定するのではなく、知り、受けとめ、上手に付き合っていくために、心を調えることが大切なのです。
どれほど美しい庭も手入れなくして保てないように、私たちの心にも日々の調えが必要です。といって、草が茫々と荒れ果ててもあなたに変わりはないこともまた大事です。とはいえ、そのままでいいわけでもない。あなたもそう思っているはずです。
自ら鐘を撞き、響き渡る音に呼吸と心を重ねるひととき。
除夜の鐘は、新しい年を迎えるために、本来の自分自身を静かに見つめ直す行事です。
御参りされることによって、その大切な節目の証となれば幸いです。
大安禅寺 髙橋玄峰 合掌




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