大安禅寺
新着情報で時々載せている新命さんの法話をまとめて見ることが出来ます。忙しい皆様も、新命さんの法話を読んでちょっと一息つきませんか?


『自灯明 法灯明 ~自分と向き合い 心を修めていく~』
平成27年1月掲載

 新しい年になり、早くも、2月を迎えようとしています。2月は、立春を迎える月ではありますが、春の陽気を感じるにはまだ時間がかかりそうです。さて、2月15日は、釈尊がお亡くなりになった日であります。釈尊は、入滅される前に「自らを灯火とし、自らを拠り所としなさい、他をたよりとしてはならない。法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。教えのかなめは心を修めることです」(自灯明 法灯明)と、悲しまれるお弟子たちに最後の法話をされました。

 自らを灯火とするとは、自分と向き合うことです。人任せの人生も、物任せの人生もありません。自分の人生は、自分自身で歩むもの、誰も代わってくれるものはありません。そして、釈尊が「法(教え)のかなめは心を修めること」と説かれているように、欲に任せて自分を見失わず、辛いことから逃避せずに向き合う、そして、正しく心を観察することで、常に幸いに満たされると説かれたのです。

 しかし、簡単には、そのような心境に至れないのが私達でもあります。どうしても自分の都合で物事を考えて、腹を立て、不平不満をこぼしてしまいます。また、迷い苦しみ逃げ出したくなる時もあります。

  昨年、お寺の世話役であったお檀家のご主人が、癌を患い68歳という若さでこの世を去りました。癌を宣告されたのは2年前です。しかし、宣告された後もお寺の仕事は毎日のように務めて下さいました。私が「無理をなさらないで下さいね」と申しても「大丈夫、大丈夫」と仕事に黙々と打ち込む姿を私は忘れられません。

 そんなある日、ご主人が私に「和尚さん、私はやっと覚悟が決まったよ。もう後悔は無い、迎えが来ることも怖くない。今できることを、ただ感謝を持って遣り抜くだけだ。やっとね......。やっとその心構えができたんだ。だから和尚さん、最後まで手伝わせておくれ」その強い覚悟の言葉に触れ、私はただ深く「宜しくお願いします」とお辞儀で返すことしかできませんでした。そして、その言葉通り、それからもお亡くなりになる数日前まで、お寺に尽力下さいました。

 ご主人の苦しみは、ご主人にしか解りません。しかし、ご主人は、闘病生活の苦悩から逃げずに、自分の命と向き合う日々を送られたのだと思います。それは、並々ならぬ辛労だったはずです。しかし、「今できることを、ただ感謝を持って遣り抜くだけだ。」と自分の心を修める心境にまで自分自身で到達された、そして、その修めた心を自分の拠り所となる灯火とし、最後まで誇りをもって生き抜くその姿こそ、釈尊の教えそのものだったように私は思います。

 お寺には、ご主人の仕事の手の跡が、あらゆるところに遺っています。境内の竹垣、書院の縁の下の束の修理、仏具修理など、挙げればきりがありません。その仕事は、人の目のつかない様な所でも丁寧にされています。ご主人の「今できることを」遣り切った跡が、その心が、亡くなった後も今なおこのお寺を支えてくれているのです。

 己の心をしっかりと見つめる日々を送りましょう。



平成26年6月掲載
いよいよ花菖蒲祭が7日から始まります。準備も整い皆様のお越しをお待ちするのみですが、長い一ヶ月ですので最後まで気を抜かず精進して参りたいと思います。

さて、今日も多くの方が法話を聞きに来てくださり当山のコンセプトでもある「心の掃除」囚われない心作りのお話をさせて頂きました。

私の法話は現代社会に当てはめ、皆様の身近なところからお話を始めていくようにしております。私の尊敬する和尚様は父も含め「出来るだけ聞いて下さる人の目線になって言葉を選びお話しする。」と言われます。この教えが法話の根幹であると私は考えています。お釈迦様も同じように約2500年前に仏教と言う「人生を幸せにする教え」を弟子たちは勿論あらゆるとこへ行脚し出向きその心をお説きになられました。その教えを祖師方は守りながらも自分の言葉にして解り易く現代まで教え伝えているのです。

禅の心を私の言葉で解り易く伝えていく。この心が無ければどれだけ法話をしても意味が無いと私は強い信念を持っています。しかし、それを実践して布教すると言うことは、人一倍勉強し学んでいく必要もあります。ただ平易な言葉を選んで話すのとは違います。それでは仏法の根幹からずれる可能性もあるからです。父である住職はその根幹を守りながらも当山で長年に渡り法話を実践し多くの方とご法縁を結んできたからこそ、現在もなお当山が護持護法されているのだと思います。

6月の大安禅寺は、花菖蒲・アジサイ・ばら・はなみずき・新緑など、多くの植物が私達を魅了する清々しい初夏を迎えて行きます。ただ訪れるだけで良いのです。訪れてお堂でお庭で佇む時間、それだけで心が癒されていく。そんな場所が大安禅寺なのです。

得るものなど何一つとして、私はこの世に無いと思っています。何故ならば、私達は産まれながらにして仏心と言う素晴らしい心を具え持って産まれてきています。その心は何物にも変えられない宝です。その宝に「気付く」それこそが仏教の教え「人生を幸せにする教え」です。何かを得ようとすれば、それは悩みの種にしかなりません。得るのでなく、自ずと素晴らしい心が具わっていることに気付くことが、一番大切なことだとを思います。

私達は求めるがゆえに、囚われ、その執着心に留まり戸惑い偏る。そして、悩みだすのです。そこから一歩、足を進める心構えを常に持ち続けることそれが精進すると言うことです。

最後に元薬師寺管主であった高田好胤師のお言葉を紹介します。

かたよらない
こだわらない
とらわれない
ひろくひろく もっとひろく
それが般若心経 空の心なり

しかし、私は思います。人間どうしても、偏ります、拘ります、囚われます。それでいいと思います。しかし、禅の心はそこに「留まらない」ことです。

一歩一歩、確かな歩みをし続ける。それこそが、私は囚われない心作り「心の掃除」だと…。

皆様ぜひ初夏の大安禅寺で、五感で味わう本当の自分との対話の時間をお楽しみくださいませ。
(大安禅寺副住職)



平成26年2月28日掲載

★「野火焼不尽 吹春風又生 (野火焼けども尽きず 春風吹いて又生ず。)」 ★

さて春風が心地良い季節ではありますが、朝晩に限ってはまだまだ冷え込みが厳しいですね。
これから穏やかで過ごし易い季節を迎え、坐禅三昧といきたいところですが。環境汚染に大気汚染は待ったなしです。私も花粉症になって十年、毎年この季節になると花粉と黄砂に悪戦苦闘しているのですが、それだけならまだしもここにきてPM2.5の問題が世間を賑わしています。

人間はあらゆる成長を求め、その犠牲に自分を生み育んでくれた天地自然を汚染し、また自らの首を絞めていく面白い生き物です。いったい私たちは本当にどこへ向かおうとしているのでしょうか。ただただこう言った問題は悲しい思いになるばかりです。子を持てば尚更で、良いものを次世代に残したいと思うのですが、実際に国が我ら大人が作り上げているものは多大なる問題ばかり…。これでは夢を持てとは言い難いものです。しかし、問題は外にあるとばかりに、外へ目を向けてもいけません。私たちは、常に移り変わりゆく諸行無常の世に在ります。それはいつの時代も同じです。ならば、一番変わらなければいけないのはやはり自分自身です。そして問題もその答えさえも自分の中に有るものです。

「野火焼不尽 吹春風又生 (野火焼けども尽きず 春風吹いて又生ず。)」 (白楽天)

夏に青々と生い茂った野原も冬には野火で焼かれ灰燼に帰してしまうけれど、不思議に春になれば、灰燼が養分となり春風に吹かれて、また芽を出し青々と茂る。

私達も一緒です。生命が有る限り煩悩妄想と言うものは尽きることはありません。それは社会も同様で、その中は人間の欲が常に蠢いている場所です。いくら問題になって追い払っても尽きない。まさにこの禅語の通りです。

禅とは「気付き」です。答えを求めるのでなく、自ずと具わっている本来の自分の輝きに気付くところです。禅では煩悩妄想が即ち菩提、悟りであるとよくいいます。それには、実践体験からなるその「気付き」が必要なのです。理屈で解るものでは決してありません。本来より素晴らしい輝きをみせる自己を曇らせる煩悩を掃除する。毎日毎日が修行でなければいけません。難題から言い訳をして逃げるのは簡単です。出来る事だけをしていても成長はありません。常に自問自答し生き切ることを大切にしなければならないのです。そう、春風を起こすも起こさぬもあなた次第なのです。

(大安禅寺副住職)





平成25年10月4日掲載



★坐禅は心の柔軟体操★

秋涼の候 朝夕はめっきり寒くなり上着が必要な季節になりました。そして、この季節になると意欲が次から次へと湧いてきます。

お寺は秋季彼岸会も無事終わり、秋の拝観シーズンへ突入しています。まだまだ、整備しなければいけない部分がありますが、今年も最後まで張り切っていきたいと思います。

さて、意欲が湧くと言えば坐禅にはもってこいの坐り易い良い時節でもあります。最近になって坐禅の問い合わせも増えていますが…。

大安禅寺に坐禅を求めに来る方で、よく「坐禅の意義とその効能」を聴く方が居られます。それを私は、分かり易く「自らの心の掃除」「心の柔軟体操」と説明します。その効能は、日常の中、また世間、社会で対面する様々な事に対し臨機応変なる心構えが養われることです。すると自ら人生が愉しき味わい深いものになっていきます。これを端的に言うと「己を知る」です。

私達は人生を歩む中で、知らず知らずに大小関係無く多くの罪を犯しているものです。道徳的なことまで含めれば、数えきれません。しかし、そう言ったものが私達の歩みでもあるわけです。

国家には法律と言うものがあり、社会にはそれぞれ常識的な制裁があります。例えば「お前は刑法第何条何項により懲役何年に相当する」と罰せられ、刑に処されます。ならば、刑に処させられればその罪は無くなるのかと言えば、結局は形式の話となってしまいます。その裏側は誰にも分からないものであり、当事者達が自ら解決しなければいけない心情が存在する訳です。実際生活の上で人間はそこで行き詰っていきます。どの時代になっても人の心が根底にあり問題を引き起こしていくのが現状です。ならばそこを、どのように解決していくのか。

 『観普賢菩薩行法経』というお経には、「人もし懺悔せんと欲せば,端坐して実相を思え。衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す」=「もし懺悔しようと思えば坐禅をしなさい、するとまるで太陽が昇ってくれば霜や露が消え去るように、罪は消えてしまう」とあります。

実相とは真実の姿ということです。つまり真理を観ぜることであり信じる心、素直な心を常に観じて行くことです。この様に言葉で説明しても結局は自分自身が納得しなければ、頭ごなしでの理解となってしまいます。腰を据え、ドッカと坐って自分の人生を味わうことが出来れば、我々が生きているこの世こそが全てを超越した安心の世界と気付けます。

人は自分をよく見せたり、失敗してもそれを隠蔽してみたり、罪に罪を上塗りすることがよくあります。そうではなく、そのままに、あるがままに生きることが大切です。自分の歩む道に生じた壁であるならば、その壁をどう素直に壁と受け入れ、乗り越えていくか、その乗り越え方もどれだけ直心で向き合えるかが重要なのです。坐禅はその心を養うものです。勿論、そんな簡単なことではありません。だからこそ人生は面白い。

今日のお茶一杯が、心から美味しいと思えるそのような人生を歩みたいものです。そこには自由自在の「私」が活き活きしているはずです。

(大安禅寺副住職)



平成25年3月30日掲載


★「真心つくせ 人知らずとも」★

光陰矢の如し。今年も、早3ヶ月が過ぎようとしています。私も昨日まで2日間、梵唄研修の為に京都の大本山妙心寺へ上京しておりました。京都の桜はもう7分咲きで、明日辺り見頃を迎えるのではないでしょうか。

さて大安禅寺では、今日枝垂れ桜が開花しました。この枝垂れ桜、樹齢300年と歴史ある桜です。毎年、力いっぱいに咲くこの桜を見ていると、ある歌を思い出します。

「あれを見よ 深山の桜咲きにけり まごころつくせ 人知らずとも」
 
“山奥の誰もが見ていぬところで綺麗に咲く桜。人が見ているから咲くとか咲かないというような陰日向は無い。人生裏表なく真心を尽くしながら、生き抜く事が大切である。”


臨済宗の名僧であり、また布教活動にも尽力された松原泰道師の著書の中で紹介されていた歌です。この歌が、師自身の心を打ち、人生の「生きる姿勢」が決まったとも書かれていました。作者など詳しいことは、わかりません。 なんでも、師が卒業旅行で友達と箱根旅行したとき、 ふと見た石碑に刻まれていた万葉仮名の歌とのことです。

人はどうしても、人知れず格好を良く見せたくなる生き物です。この歌の桜のように、「無心に咲く」ことが私たちも自ずと出来れば、一層深みのある人生を歩めるかもしれません。しかし、そう簡単に悟ることが出来れば、人は苦悩などしません。だからこそ、日々私たちは精進をすること「真心を尽くす」ことを怠ってはいけないのです。得不得を考えるのでなく、まずは今日という日を一所懸命生き抜いて行く、それが仏教です。その無心を知る心の掃除が出来れば、自然にどんな場面でも自分というものが活き活きし始め、笑顔の花を咲かせることが出来るでしょう。

「真心つくせ 人知らずとも」

その心を、この枝垂れ桜が300年経った今も尚、この愚僧に教示してくれるのです。 合掌




平成25年3月18日掲載


★人の心を伝える花団子★

毎年三月初旬になると、私の町では鈴の音と共に「ホォーーーー」と言う太い声が響き渡る…。

毎年、大安禅寺では春季彼岸会に併せて「涅槃会」を執り行います。涅槃会とは、お釈迦様の命日に法要される行事のことであり、「涅槃」の意味もこの場合には、お釈迦様が亡くなったという意味で用いられます。実際の命日は“二月十五日”であり、涅槃講や涅槃忌とも称し、日本や中国などで勤修され、釈迦追慕と報恩のために厳修します。

当山の涅槃会には「花団子・涅槃団子」(上の写真)をお供えします。色鮮やかな、この団子はお釈迦様の遺骨『舎利』を表すとされ青・黄・赤・白・黒という五色は、それぞれ空・風・火・水・地を意味しています。これを持つと火難・水難・盗難・病難・怨賊難などの災難魔除になると伝えられており、食べれば無病息災、食べずに持っていると、お守りにもなります。言わば祈りの心です。

その団子を作るためのお米を、布施していただく為に毎年3月初旬に地元を托鉢するのです。今では地元の決まった町内しか回らなくなりましたが、祖父の時代は裏山を越えて一日中托鉢に回ったそうです。何十年も続けられてきているこの托鉢も、今ではすっかり地元の風物詩となり、多くの方が「涅槃会」の為に協力して下さります。

さて、「人の心を伝える花団子」とは?

私の祖母は、私が幼い時から多くの「心」を教えてくれました。特に「食への心」に関しては口うるさいくらいで…、それも、祖母の時代の人は、食の苦労をよく知っていたからだと思います。例えば、ご飯一粒「残さない」でなく「残せない」という心持ち。この違いが解りますか? 私は、そんな祖母から、食や物への感謝「有り難し=有難う」を教わりました。

時代の経過というものは、誰にも止められません。そして人の価値観もおのずと変化していきます。例えば現代は、電子社会が進み、どのような物事もスピード重視の社会になっています。答えも今直ぐ出すことがやはり重要視されているこの時代。「いつやるの?今でしょ!」とは違いますが(笑)。体裁・形に囚われて、簡略化・利便性を追い求めすぎる。すると実はどんどん「心が不自由」になっていることに気付かなければいけません。

情報過多と言いましょうか。ネット上で調べたもの、TVで見て聞いたその情報を、さも自分が経験したかのように発信していく。剣道で言えば「心・技・体」が一体になっていない人…。今一度私たちは「自分の心」の主人公を見つめ直さなければいけません。

「花団子」は、地元の方々が一所懸命働かれたその稼ぎ、また自身の田んぼで苦労して、愛情を込めて作られたお米。そんな「人の心」が凝縮して出来たお団子なのです。

作るのも三日掛り。多くの方の手が掛かって出来上がります。そして、涅槃図の前に恭しく三宝に大盛りなった花団子が供えられます。

その心が詰まった花団子が供えられ、多くの人がご先祖様のご供養をします。繋がられてきたこの命を尊び、そしてまた繋ぐ命を貴び、そこに感謝の心を供えるのです。その感謝の心を供えご先祖を養い、自身の家族を養う行為こそが本来の「供養」です。

形式的に何か物事を実行するのでなく、ちょっと立ち止まって自分の心と対話してみてください。するとふと今まで気付かなかった自分の新たな価値観「主人公」に出会えるはずです。  合掌


大安禅寺